こんにちは!

おかの哲(おかのさとし)といいます。

数あるホームページから

当ホームページでへお越しいだだきまして感謝いたします。

わたしは、パソコンを駆使して新品アパレルの輸入販売や新品・中古商品の国内販売・輸出販売を行ったりしています。

また、現在、副業コーチ、経営プロデューサーを行いつつ、

この先も不透明な世の中で、今の暮らしをを失わないために

本業以外に3つ以上の収入源の確保を提案・サポートしています。

 

人生80余年、私自身も新たにアートの制作・販売も準備中です。

今でこそ金銭的に自由な状態となり、

自由な人生を送ることができるようになりましたが、そこに至るまでには様々な苦難がありました。

まずはわたしの「半生」を知っていただけたら嬉しいです。

◉新卒で地元の製菓会社の工場に就職

わたしは多くの人と同じように、公立商業高校を卒業し、東京に本社がある有名な製菓会社の水戸工場に就職しました。

そして、フォークリフトにて積み込み作業など、現場の経験から生産管理など事務職まで担当させていただきました。

当時は東京への憧れもありましたが、一人っ子という家庭環境もあり、第一志望への就職が決まったので「やったー!」と心を弾ませていました。しかし、いざ就職してみると、学生時代とのギャップに驚かされました。

「仕事が物足りない」

わたしが、4年、5年と勤務しつつ、うちに思い続けていたことがこれでした。

その時にちょうどタイミングよく、東京に本社がある看板印刷会社の茨城工場の新設の話があり、事務職での引き抜きのオファーをいただきました。

転職して想定外だったのが、いつまでも現場仕事ばかりで、最初の事務職の話なんてどこへやら、、

「あれ?このまま定年まで、このシンナー臭い会社のために働いていて満足いくのか?」

こんなことを考えはじめていました。

危険物取扱主任者や有機溶剤管理者などの資格も取らせてもらったりもしましたが、仕事に物足りなさを感じながらも、とりあえず一所命仕事を続けていました。

◉副業との出会い

転職して半年が過ぎた頃ですね、前職では副業禁止でしたが、同僚から副業の話を聞いたんです。前職よりアップしたとはいえ雀の涙ほどでしたから、若かったということもあり体力勝負で夜・昼掛け持ちで働きました。

納豆工場の夜勤勤務から、クラブのボーイ、ホストまで1日1、2時間の睡眠で土日関係なく、休みなく毎日働きましたね。昼休みや休憩時は当然死んだように寝てました。稼げましたが、身体や精神面は徐々にボロボロ状態になりましたね。

この頃26歳当時、父親と仲が良くなかったこともあり、土地付き注文住宅を購入もしました。その後離婚することになるのですが、無理がたたったのか、腕が上がらなくなっていたので、週3回昼間の仕事を早退して、病院に行き鍼をうってました。ま、氣安めで良くはならなかったんですが。

そうしてたら、そこである方に話しかけられたんですね。

その方が縁で磁石の布団の体験をするのですが、20分位横になっただけで腕がスーッと上がってしまったではありませんか、、翌日通っていた病院の医師の驚きと、言葉はわたしのその後の人生を変えました。       

「昨日まで肩甲骨のあたりが瘤のように盛り上がって腫れてたのに、、何をしたの?」

その日から通院もやめました。商品は本物だと体感済みです。その後、説明会に連れられていき、当時サラリーマンとして働くしか知識がなかったのに「セールス」や「足圧法」というものをはじめて知ったのでした。

そして、販社代理店の資格を得て、法人を立ち上げるまでに至るのですが、そんな時にメーカーのメインバンクが撤退した!との情報が入りました。

まだ蓄えも正直ありませんでしたので、委託システムがいきなり買取りシステムが変更になり、ますますメーカーの雲行きが怪しくなりました。そして「撤退」という苦渋の決断をしました。

単純だったわたしは、その後「よし、セールスで食っていくぞ!」と考えて、高校入試や大学入試のゼミ販売をやっていくことを決意したんですね。

◉身体的にも精神的にもボロボロに、、

電話でアポドリのセールスだったのですが、そのうちに病んできまして、メーカーもゴタゴタが続いたりで、そのうち自身もボロボロになり、警備会社に鞍替えしました。

ここで新工場建設の常駐を任されたのが縁で、紹介を受けて、ふたたび正社員として工場勤務になりました。ただ、やっぱりここでも心満たされませんでした。そんな時です。

リーマンショックの余波が勤めてた会社より、大きいところが次々と倒産に追い込まれていきました。

この頃には40歳過ぎていましたので、

「このままの人生でいいのか?」

の問いに答えるように整体業をやろうと決意し退職しました。そして、20代で身につけた「足圧法」を皮切りに、新たな技術習得や勉強を兼ねてせっせと毎月上京しました。

◉東日本大震災被災という経験

そんな中、あの「東日本大震災」をホームセンターの駐車場で体験しました。

ホームセンターの大きなガラスが波のようになってましたが割れませんでしたが、そのほかはめちゃくちゃでした。強い縦揺れの後、大きな横揺れは異常に長く感じました。やがて揺れがおさまると周りの信号機は皆、無灯状態でした。

なんとか自宅にたどり着きましたが、家の中もめちゃくちゃ、オール電化でしたのが幸いしまして、電気は大丈夫でしたのでなんとか生活はできました。が、周辺のお宅は皆、ガスが止まっていました。後で聞きましたが、復旧まで3週間は止まってたようです。

あとは水とガソリン不足です。会社はやめていたので、自宅にいればなんとかなりましたが、会社勤めの方は連日の販売20リットル数量制限のガソリンスタンドに何十mも夜通し並んでの順番待ちでしたね。

その後、わたしも群馬の親戚の家に、(再婚)嫁は中国に別れての暮らしになりました。群馬ではジョイフルホンダが新規オープンして茨城のような深刻なガソリン問題もなく、暮らしは快適でした。

その後しばらくして、おちついてから茨城に戻り、自宅の1室で整体院をオープンしました。

◉メンターとの出会い、物販 の開始

しばらくして、自宅から土浦のマンションに移ったのは、どうしても生活感が出てしまうことでした。

そんな折、書道家 坂本幸一先生との出会いは大きなきっかけとなりました。

今まで副業というと肉体労働でしたが、アドバイスの元、ネットを使ったヤフオク を合間にはじめて家の中の不用品とか出品していきました。

アパレル輸入販売も手掛けていき、アマゾン、ヤフオク 、メルカリなどで収入を得られるようになっていき、楽しさを覚えました。

整体は、患者さんの卒業を見送って、整体業をやめることにしました。

広いスペースを探していましたが、いなかでもマンションでの経営が厳しくなってきましたし、後に土地は手にいれましたが、上物の金までは当時持ち合わせていなかったためです。

物販で稼いでから、、、と思いつつ今に至ってますが、、、

◉現在に至る

2021年お陰様で大学を卒業でき、2022年は新たにアートの制作の修練をスタートしました。

目的達成のサポート役としての今の仕事が、ワクワクして楽しい毎日を送っています。

もちろんスキルアップのための物販をはじめコピーライティング、アートの勉強会は今でも欠かせません。リアルよりオンラインに移行しましたが、、